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歴史と人々

八代斌助[やしろひんすけ] 日本聖公会首座主教 (1900-1970)

 八代斌助師は、1900年(明治三十三年)三月、八代欽之允司祭の二男として、北海道の函館に生まれた。釧路中学をへて立教大学予科へ進学したが、中退。中国の山東省青島(チンタオ)へいったり、旭川歩兵連隊に入営して陸軍少尉に任官したりしたのちに聖職者になることをこころざし、 1920年(大正十年)日本聖公会神戸教区の伝道師補に任じられた。それ以後、1970年(昭和四十五年)十月十日午前八時四十五分、七十才でガン性腹膜炎のために永眠するまで半世紀にわたって牧会、宣教に従事されてきた。その間、1925年(大正十四年)に執事、27年(昭和二年)に司祭となり、ついでイギリスのケラム神学校に留学、姫路聖公会、須磨-聖ヨハネ教会勤務をへて聖ミカエル教会牧師となり、40年(昭和十五年)に神戸教区補佐主教となり、その後、神戸教区主教のほかに九州教区、朝鮮聖公会、大阪教区などの管理主教を歴任、47年(昭和二十二年)に日本聖公会主教会議長となり、死去するまで首座主教の地位にあった。 戦時中に、軍部や政府の圧力によってプロテスタント系各派とともに日本聖公会も日本基督教団への合同を強要されたさいに、八代師が種々の迫害をかくごで日本聖公会をまもりとおしたことは有名である。


 戦後はいちはやく教会再一致をめざすいわゆるエキュメニカル運動の先鞭をつけ、1948年(昭和二十三年)には後に親友となる連合軍総司令官マッカーサー元帥の特別許可を得て、戦後初の公式の海外渡航の民間人としてロンドンで開催された全世界の聖公会の会議であるランベス会議に出席したのち、アムステルダムで開かれた世界教会会議(W・C・C)に出席したりした。 その後、日本キリスト教協議会(N・C・C)副議長、日本聖書協会副理事長を永年つとめ、さいきんでは万国博キリスト教館会長として活躍するなど、エキュメニカル運動のために貢献するところ大であった。


 また戦後日本人として初めて渡航したさいには、イギリス国王ジョージ六世あての天皇のメッセージを伝達したし、有名なテニスのデヴィス・カップ争奪戦への日本の復帰や講和会議の下準備などにも尽力した。1949年(昭和二十四年)の戦後二度目の海外渡航のさいには、アメリカでワシントンの極東委員会のマコイ議長の依頼をうけて、帰途フイリッピンや香港の日本人戦犯を訪問したりしている。 さらに翌年には、当時まだ対日感情の好転していないオーストラリアやニュージーランドを訪問して、親善使節の役割を果たした。その後もたびたび外遊して、民間人としての立場から日本の国際的地歩の向上につとめるとともに、海外伝道のためにも貢献し、「日本の八代」としてよりもむしろ「世界のヤシロ」として知られた。 オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士などと多くの学位号をおくられたことが、このことをよく物語っているというべきであろう。もっとも、56年(昭和三十一年)に時の岸首相からイギリスの水爆実験中止を要請するための特使として渡英することを要請されたさいには、「宗教家は政治に指図されるべきでない」とことわり、代わりに当時立教大学総長の松下正寿氏を推薦したりしている。

 

 1959年(昭和三十四年)に宣教百年記念大会が開催されたさいに、カンタベリー大主教フィッシャー博士、米国聖公会総裁主教リヒテンバーガー博士をはじめ、オーストラリアのハルス大主教、ブランドンのノリス主教、韓国のデーリー主教、ロスアンゼルスのブロイ主教、北インディアナのマレット主教、ハワイのケネディ主教など多数の海外代表が参加されたのも、八代師とそれらの人びとの友情および同師の活躍に負うところが大だというべきであろう。「空どぶ主教」とは、まさに同師にぴったりの形容詞であった。晩年の69年(昭和四十四年)正月にも沖縄、台湾訪問旅行をしているし、入院の直前までも飛行機や新幹線その他で東奔西走されていたことは、衆人のみとめるところである。

 

 他方、八代師は教界においてはまったくの型破り的存在で、往年は酒豪としても知られ、世俗的な庶民性を身につけた、いわゆる「牧師」という通念からはほどとおい人物であった。酔えばよく「王将」や「今日は、赤ちゃん」「カチューシャ」などをうたったりしたものである。みずから町内会の夜警をひきうけたり、大工や左官をやったりする勤労奉仕マニヤでもあった。それに子どもが十一人あり、永眠当時で二十四人もの孫がある関係があってか、教育にははやくから異常なまでの情熱をいだき、学校のPTAで活躍したのをはじめ、聖公会系の多数の幼稚園、中学高校、大学などの理事長、理事、院長、園長などを兼ねていた。


 教育関係の生前の主な肩書を列記すると、つぎのとおりである。聖公会神学院理事長、立教学院理事長、松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、八代学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長、(聖路加病院理事長)国際キリスト教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園長、神戸市教育委員、ボーイ・スカウト日本連盟相談役。


 故人は文書伝道にもひじょうに積極的で、月刊の個人雑誌『ミカエルの友』を生前書きつづけてきたことは有名である。同誌は、故人の死後、遺言によって第183号をもって終刊した。他にみずから奇峰社を設立して、キリスト教関係の出版に従事、多くの図書を刊行した。主な著訳書はつぎのとおりである。『主イエス』『九十九の羊は』『聖書について』『聖書の話』『聖歌の話』『聖歌と人生』『戦後の世界を巡りて』『ああ濠洲よ』『ランベスあとさき』『現代に欠けるもの』『戦後十五年』『「今」を生きる』『病床に語る』『八代先生教話集』『八代斌助著作集』ネアン『旧約の話」『新約の話』バイク、ビテンジャー『教会の信仰』シェパード『教会の礼拝』コーガン『聖書の五人の作者』ほか多数。

 

 なお、故人は宗教界・教育界における多年の功労によって、政府から1970年(昭和四十五年)十月十日付けで正四位・勲二等旭日重光章を贈られた。

 

文責:山口光朔